長崎街道 【8日目】

2011年11月8日

嬉野~竹松
7時30分街道沿いのホテル嬉野を出発、今日は30kmあまりで大村まで予定。今日の街道は楽しいコースであった、山間の静かな山道が多く大村湾が一望できた。結果的には大村まではいけなかったが竹村駅で終わりJRで大村駅まで移動しました。
今晩の泊まりは大村駅近くの大村センチュリーホテル。
今日は、そのぎ峠を越えた街道(国道)沿いのお店で珍しく昼食を食べました。長崎ちゃんぽん美味しかった。そこで店主のお母さんと娘さんと話し込みゆっくりさせてもらった。
28kmほどでした。

昨日の大宝寺坂を南東に下ってきて、国道34号線のT字路に出たところから、街道を振り返る

突当りの国道を数十m右に折れたところの嬉野町温泉四区信号交差点で道は分岐。右が34号線、左の道に入りますが、交差点で90度に左に折れる道が街道です

左に折れる街道の辻の手前の説明案内

左に折れた右手に、昨夜泊まったシテイホテル嬉野が見えます。
左に折れて左側に田中医院があります。100m程南東に進んだところでT字路に突き当ります。旧道はか右斜めに100m程進んで、ドラッグストアモリ嬉野店の前に出ていたが建物等で消失していますので、T字路を右に折れて80m程先で、右にシテイホテル嬉野の正面にでて、ホテル前を左に折れてドラッグストアモリ嬉野店の前に出ます。店の前はT字路で右に折れて街道を西に進みます。
その通りの右にマルキョウがあり、その並び西側にはキリスト教会嬉野があります。
教会のすぐ先で交差点を越え、150m程進むと右に恵比寿屋旅館があります、道は行き止まりになりますが、右に折れるとすぐ本道に出ます。

本道に出てきたところで、東(ホテル)方向の町筋を見たところです。向かって右手に、恵比寿屋旅館、左手にお宝倉庫夢市場があります

 【嬉野宿】
長崎に向かう街道は、北方町で武雄及び塩田の経路をたどっていた。嬉野の追分で合流し嬉野宿に入ります。嬉野宿は嬉野湯宿・湯町・嬉野駅とも呼ばれていました。
江戸時代嬉野町は、平野郡を蓮池支藩、周辺山地側を佐賀本藩が領有していた、長崎街道の通過する嬉野宿は、蓮池支藩の支配地であった。
東構口の木戸は現在の和多屋別荘の本通り入口付近にあり、500m程離れた西口は大正屋入口前付近にありました。平時は監視する人も扉もない木戸でした、何かの時には防御地点となる重要な役目を持っていた。
宿場内には、三十軒余の旅籠、木賃宿や商家など百軒ほどのわら屋根の家が街道沿いに並び、宿場の中央には、豊玉姫神社、その隣に御茶屋(上使屋)、人馬継立場、高札場等があり、嬉野川ぞいには藩営の温泉浴場が設けられていました。また、長崎奉行などが宿泊する本陣は、街道から北へ約300m離れた瑞光寺がりようされていました。

 東構口跡 左に史跡公園があります

東構口跡近くにある 番号石

東構口(町木戸)跡

構口前からの本通りの町並みを振り返ったところ。正面直ぐの右の道を本通に出てきたところ

石碑

左に 長崎街道嬉野湯宿 豊玉姫神社跡碑
江戸時代には嬉野宿の中心地に広い神社敷地を有していた、天保三年(1832)の大火で焼失した。

宿場の中心地で近くに蓮池支藩の 藩営浴場跡・上使屋跡 街道挟んだ向かいには 高札場跡・人馬継所跡 がありました

左、三根酒店のすぐ先を左に入った塩田川沿いに、嬉野温泉シーボルトあし湯 嬉野温泉旧公衆浴場蓮池支藩の藩営浴場の跡 に建てられたゴシック風建築。浴場は老朽化のため閉鎖したが、大切に保存されて来たが、平成17年3月の地震で倒壊の恐れが出たので解体されその跡に、新しく建て替えられました。

その先、左の嬉野交流センター、右の朝長医院のすぐ先の楓ノ木信号交差点を横断します

楓ノ木信号交差点を右に入り、国道34号線を越えていくと 
臨済宗南禅寺派大寧山瑞光寺 があります。残念ながら寄れませんでしたが、応安二年(1369)時の領主嬉野氏が創建。江戸中期、明和二年(1765)~文久二年(1862)までの間、嬉野宿に本陣がなかったので仮本陣として機能していた名刹

信号交差点を越えた先、左にある大正屋手前の右に 豊玉姫神社の鳥居と参道 があります
豊玉姫神社の歴史は古く、天正年間(1573~92)に焼失しましたが、元和年間に再建され鍋島藩の祈願所として尊崇を集めてきました。
豊玉姫は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても知られている、古来より水の神、海の神として伝わる。「美肌の神様」

さらにその先、十字路左手前には嬉野観光ホテル大正屋があります

大正屋の入り口前に 西構口の碑と説明板

旧道は西構口 の十字路、左に大正屋の前から旧道は右斜めに50m程右の筋の通りをかすめて西に進み弓なりに、そして今の道を斜めに左側に横断して、山水グローバルインの北側、食品館嬉野店ユートクの敷地内に出て西に向きを変え、嬉野町湯野田信号交差点の南40m程のところに出ていました。今は建物等で完全に旧道は消失しています。その間400m程です

旧道は消失しているので、大正屋の傍の十字路を真っ直ぐ進みます。前から宿場の街並みを振り返る

前述のとおり旧道は消失しているので、ホテル大正屋の前の本通を西へ、嬉野温泉一区信号交差点を横断します。交差点から300m程進むと嬉野町湯野田信号交差点に出ます。その間に前述のとおり、旧道は北側から南側に斜めに横断していました。嬉野町湯野田信号交差点で左に折れて、数十mでユートクの西側に出ます、左T字路になっていますので、ここで旧道が復活して右に折れて西へ進みます。  
100m程旧道を進むとT字路で再び旧道消失。かつてはここで右斜めに進み34号線に出ていました。現在は住宅で消失しているので、T字路を右に折れて、数十mで本通りに出て左に折れて34号線に合流します。そして34号線を横断します

T字路となり右斜めに消失した旧道の左、塩田川を背にして 七郎神社

ハッキリ道順が分からないのですが、旧道はT字路から右斜めに左に七郎神社の北を西に抜け民家で消失した所を進み、右に地藏さんを見て34号線にでて横断して34号線の西側に出ていたようで

神社の境内の北側の路地

 お地蔵さん を右に見ての路地

国道34号線を注意しながら横断した先で、左に急カーブして直ぐ先右に湯野田公民館を見て、塩田川に合流している湯野田川に架かる湯野田橋を渡り南に方向を変えて進みます

湯野田橋を渡った先から振り返ったところです

暫く真っ直ぐ静かな集落を南下します、途中左に永尾製茶問屋があります

右手に 嬉野八景 烏帽子岩の蛍火の石碑

暫く進んでいくと小川を渡り小川内地区に入ります、川を越えたすぐ右の道を150m程入ると

湯野田の 丹生神社

街道に戻り長閑な風景を見ながら先を南に進みます。湯野田丹生神社の参道入り口より、街道を200m程先のこの辺り今は田畑で消失していますが、資料によると旧道は分岐して、右の山裾辺りを進んでいて、今も旧道が一部残っているようです。南の平野丹生神社の少し先で旧道が合流していたと記載されています

道なりに進んでいきますと、左から国道34号線が不動山郵便局の手前で合流してきます。国道には歩道橋がかけられています

合流点は、不動山郵便局・大野原入口バス停があります

暫く国道を歩いていきます、一つ目の平野橋バス停で道は分岐し、左に国道を分け右の道に入ります

右に入った旧道、嬉野町不動山地区です

200m程入ると右手に平野の 丹生神社の肥前鳥居と参道
前述の消失した旧道は、この肥前鳥居と前方に見える二の鳥居の間の集落に出てきていました。(鳥居を潜り入っていきます)

二の鳥居も重厚な肥前鳥居です、さらに奥には三の鳥居が見えていますその奥は拝殿です

二の鳥居の参道前に向かって右に消失していた分岐の先の旧道です。脇に刻字の読めない古い歴史を物語る 道標 があります。右(北東方向)

鳥居傍より左(西南)方向を見たところで、この畦道の方向に旧道は通っていたようです。左手方向が34号線

一の肥前鳥居前の街道に戻り、更に150m程西に進むと街道沿い右に 水神様の祠 前述の旧道の分岐道はここで合流していました祠の中で水に浸って祀られています

右、水神様のすぐそばに下不動公民館があります

すぐ先左に 六地蔵堂

傍に 立岩谷大水害の碑

公民館前の道を100m程進む、肥前平野バス停手前で街道は分岐しています。左に入る旧道

左手分岐の角に、史跡長崎街道平野渡し跡入口の案内表示

分岐して180m程進んでいくと 平野川の平野の渡し跡 に出ます

安政五年(1857)には石橋が架けられ、明治に増水で石橋が流され、木造の橋が架かり、現在はコンクリートの井手上橋となっています。今も川には、石橋の橋脚や角材、飛び石渡りに使用された岩が残っています

平野川と国道34号線の間の旧道を400m程西南に進んでいきます。かつては厳しい 俵坂峠への上り道
渡し跡から100m程は右の川に沿って進みましたが、その先は左の国道に沿います

右(北)側の不動山地区の景色が素晴らしい

左の国道34号線の右下の旧道、振り返ったところです

快適な街道を進みます

やがて国道34号線が左から合流します

出てきたところを振り返る、何とこの先崩壊あり通行止めの表示がありました。確か反対側には無かったように思うが

国道34号線を斜めに横断します。国道により峠道は開削されており、往時の厳しい峠の面影はない。渡し跡から国道まで一気に上り、一旦峠の中腹で坂を下っていきます

国道より入ると茶畑で、100m程茶畑の間の畦道(殆んど草で道らしくない)を南に入ります

100m程先で右の国道よりの細い舗装道に出ます(前述の国道より畦道を入らず国道を150m進むと、左に折れるこの道があります)。坂道を下っていきます

下り坂を振り返ったところです

この付近は茶の産地で一面茶畑です、街道はその間を南に進んでいきます

緩やかな下りをどんどん進んでいきます

道なりに下りますので迷うことはないです

国道を横断した所から、茶畑や雑木の中の旧道を蛇行しながら700m程下ると、右から国道が合流します。国道で車に注意しながら斜め左の向かい側の旧道に渡ります

分岐する下り坂の入り口右に 俵坂関所跡の標示 が立っています

国道を横断した案内表示のところから、下ってきた峠道を振り返る

俵坂の小さな集落を抜けていきます集落内左に俵坂集落センターがあります

集落内の街道

俵坂集落の抜けたところの旧道沿いに 俵坂番所跡と国境石
国境石「従是北佐嘉領」と刻む国境石はこの先にあったのを移転

江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び、ここは俵坂口留番所である。戦国期にはすでに関所としての機能があったと伝わる。江戸時代には長崎街道として佐賀・大村両藩の藩境の要地で、特にキリシタンの取り締まりが厳しかったといわれる。敷地面積二百余坪、侍一人、足軽九名が常駐して両脇に竹の柵が設けられていた。明治維新を向かえ明治四年(1872)の廃藩置県と共に廃止なりました。

佐賀藩の西の拠点であった俵坂口番所を過ぎ、坂を上ると峠の頂上に着きました。今は国道で開削され峠道の面影は無くなっている俵坂峠の頂の前述の国境石が建っていた。国境石の先は大村藩領に入ります。国道を少し歩いた先から振り返ったところ、向かって左下前方が俵坂集落

国道の坂を上っていくと、右にホテルがあります。旧道はこのホテル(国道の右側)の敷地辺りを通って下っていたようです

この付近が 俵坂峠 です。平野の渡し跡から俵坂を上り、一旦下り再びここ峠の頂上までの長い峠道は難所であったことだろうと歩いて実感しました。
佐賀県から長崎県に入ります、いよいよ最後の県になりました

峠頂上より暫く国道を下っていきます、歩道があるので助かります。暫く下ったところから峠を振り返る、左手の金網柵の中を旧道は雑木の中を下っていた

やがて右の金網柵が切れたところに、下ってくる旧道があるではないか、長崎街道の案内板が立っているが、ホテルの辺りには入る案内がなかったし、資料では廃道となっているから、よくわからないが、とにかく国道に沿った雑木の中を通っていたことは確かだろう

冬場でこのような草だから通常期は無理だろう。入ってみたいがちょっと躊躇します

 旧道が出てきたすぐのところ右に 駕籠立場跡への標柱 国道の右手奥辺りにあったのだろう

国道を挟んだ左沿い看板の袂に 国境石 「従是南大村領」この国境石も多分移されたものだろう

国道を歩くのも面白みがないから、立場跡への標柱のところを右に入ると、何と旧道がありました。
駕籠立場跡 から先の旧道が国道の西側に残っていました

地道ですが山裾の茶畑の中の畦を抜けていく旧道です

でも茶畑としての整備か、街道としての整備か、両方と思いましょう、素晴らしい旧道です。まだ草を刈って新しいようです

どんどん茶畑の中を抜けていきますでも多分私有地と思いますが誰もいないのでご挨拶もできませんでした

左下に国道が見えます

旧道跡の面影が残る古い石積み、大感激です

俵坂籠立場跡の新しい石標 が街道沿い右石垣の袂に立っています。やはりこれは街道を残そうとする、地元の行政や市民の努力のたまものです、ありがとうございます

所々にある長崎街道の案内板

さらに細い民家の前の道を下っていきます。気が付いたらいつの間にか山深い標高の高い地区に来ていたと驚いています多分茶畑もこの辺りの集落の人々の私有地でしょう。また同時に旧道も整備されているのだろう。有難うございます

やがて右手石段を上る高台に 釈迦堂 があります

釈迦堂の前の下り坂の街道

さらに下っていったところで、左からの国道34号線に合流します

国道に出たところから、下ってきた街道を見ると、案内板が右に立っています

国道に出たところでまたすぐ左に下る旧道が分岐しています

左に下った少しのところから、もう一度振り返る。

長崎県東彼杵町坂本郷です。国道はこの先左に大きく山型にカーブしながら進みますが、街道はその左下を沿いながら山里の細い道を下って進んでいきます

本当に山里の風景が満喫でき、天気も良く最高のです、街道歩きの冥利に尽きます。今でこそ比較的楽に楽しみながら、でも往時は厳しい長い 俵坂峠越えであったのが実感しています

そのような旧道を暫く進んでいくと右手に 坂本千部塔

千部塔の前の街道

左、田畑が開け、右の上方向に国道が走り、素晴らしい景色の一語に尽きます右の街道をゆっくりと風景を楽しみながら歩いていきます

長崎県のだんだん畑十選
緑のお茶と石積が織りなす曲線美:坂本地区素晴らしい茶畑がだんだん畑となって広がる
そのぎ茶として有名。そのぎ茶は幕末の 女傑:大浦慶 も取り扱い財を成した。お茶の栽培の歴史は古く15世紀頃には栽培をしていました

景色が一望できる広場、説明板や石碑が建っています。 
坂本浮立(県指定無形民俗文化財)
大村藩の御用浮立であって小学校の子供たち初め地区あげて保存に取り組んでいただいているそうです。ありがとうございます

(旧道の説明) ①
チョットここで街道をまとめてみます。写真の撮影場所と説明位置が難しく、写真に沿って想像していただけるとありがたいです。そのためできる限りこまめに写しています。
釈迦堂の先で国道を横断、近くに俵坂バス停があります。国道の左(南)側に出て下っていくと、右に坂本千部塔があります。
さらに坂を下っていきます、左に素晴らしい茶畑の景色を見ながら暫く細い山裾の旧道を緩やかな蛇行をしながら歩きます。

左一帯、緑一色の茶畑・田畑が広がる景色

(旧道の説明)②
やがて西坂本地区に入り、右からの国道に出て再び左斜めに横断します。近くの国道に、坂本郷バス停があります。横断して今度は国道の北(右)側に出ます。横断するところに環境美化推進の町東彼杵町の看板が立っています。左、国道に対して弓なりに大きく進み、暫く歩いたところで再び、福田製茶のところで左からの国道に出ます

西坂本の集落に入ります

 (旧道の説明) ③  
西坂本の集落を抜けると、再び国道に出ます、手前左に福田製茶があります。国道を横断して、また国道の左(南)側にでます。国道はこの先、北に方向を変え少し西へそして左に大きくカーブしながら山型に通っていますが。旧道はその左手を同じようにカーブしながら暫く荒れた街道を進むこととなります。先でまた国道に出ます

国道に出たところです

国道を右斜めに横断した先の街道を下ります、国道を右上に沿った旧道が見えます。国道はこの先右にカーブしています。

国道を横断したところから振り返ったところ、向かって右に福田製茶

少し先林が見えていた入り口に、少し嫌な予感がします。鉄条柵が厳重に旧道を遮っています

猪が多いようです、開閉して中に入っていきます。街道歩きの山に入ると結構柵を取り付けているのが多いです。でも気持ちいいものではありません。気を付けなければいけないのは、猪の罠です、歩いていて何回か見ました。もちろん道路には仕掛けていないです。九州は熊いないから安心ですが
ルールです開けた後は必ず閉めましょう

柵内に入ったところから振り返ったところ

すこしの間の薄暗い雑木林の中をすすみます

石橋の袂に長崎街道の案内表示が立っています。快適な旧道の雰囲気です

石橋の先から暫く道は荒れてきますが短い区間です。今までもこのような道は何度も経験しているから、むしろ旧道跡が堪能できますよ

明るくなり出口が見えました夏場はマムシが出そううな旧道です

雑木の中の道を出た所からの旧道口、このように見ると穴倉に入るようで薄気味悪く勇気がいります

 (旧道の説明) ④
国道に出たところで、再び旧道は国道のすぐ右側に沿っての道があったのですが、ここは歩けない状態です、右の旧道跡の様子を見ながら国道を進みます。

更に少し坂を上り国道に出てきたところの旧道を振り返る

国道の右側に沿っていた旧道跡です。少し先で国道と右にカーブしている。国道は開削されているから一段低くなっています

止む無く国道を進みます

右のこの茶畑の中あたりを通っていた

暫く国道を右に大きくカーブしながら進んでいた。カーブの先から振り返ったとことです
旧道は円の内側を通っていました

暫く進んでいくと民家があります

菅無田郷地区に入り、バス停があります

バス停の傍国道右手に 菅無田の千部塔

(旧道の説明)⑤  
菅無田千部塔・菅無田のバス停のところで旧道は、右に少し高坂茶工場の前まで半円を描いて国道を迂回していますが、その先は、国道右手の山側を国道に沿って(国道は開削により低くなっている)進んでいたが、旧道は消失しているので、そのまま国道の右側を進んでいきます。国道左に赤い屋根のドライブインがあります、その前の国道は左に緩やかにカーブします。ドライブインが過ぎた先で国道は急なカーブを右に描いています

少し右に迂回する道があります

(間違った道ポイント)
国道が緩く左にカーブする手前に国道の左側ドライブインの看板のある手前を左に下ってしまった。ドライブイン下の道、先で右から旧道が下ってきていてここで気が付き戻りました。

ドライブインの下のみち、間違って入った。先で一里塚を通ってきた旧道が出てきて合流します

元の国道に戻り、左のドライブインの先の右カーブするところまで進みます

右へのカーブするところから振り返ると右手にドライブインが見えます

上の景色を想像すると、かつての旧道は向かって国道の左の樹木の中を進んできていた、そして、この地点で左に折れて、現在の国道を越えて向かって右に下っていたと思います。ですから、国道は改修作業で掘り下げられているので、旧道はこの上を向って左の上から右に下っていた。

今まで歩いてきた旧道跡を探りながら歩くのは、楽しいですが結構大変です。一歩方向を間違えればとんでもないところに出ます。国道を歩けば簡単なのですが、それでは旧道歩いている楽しみが減少すると私自身は思っているのでできる限り探します

右にカーブするところでガードレールを乗り越えて、左の旧道跡へ入ります。入り口のガードレールのところに、国道34号線の79.5㎞のポイント表示と長崎街道案内表示が見えます

少し左に入っていき、右にカーブしていますがかなり荒れていて、道が見えませんので、案内表示があるとはいえ不安がよぎります。
冬場でこのような状態ですから、夏場は全く厳しいかも。区間はあまり長くないと思いますがでも案内標示はつけていただいてます。なければとても冬場でもわからなくてあるけないとおもう

右にカーブして進んでいきます旧道跡があります

踏み跡が少しあり迷うことはありません。
長崎街道と鳥越の一里塚と松並木 の案内看板があります

かつては一里塚と共に松並木が聳え街道の面影が明治まで残っていたようですが、国道改修や伐採によりなくなってしまったが、その雰囲気を残す街道の貴重な遺跡です。
一里塚跡を振り返る。貴重な遺跡なので、東彼杵町の行政ですこし手入れして頂いたら有難いのですが

草の茂った中に 鳥越一里塚跡碑

右にカーブしながら下りますが、下に舗装道路が見えてきました

ここを下ると舗装道路に出ます。左からの舗装道路が先ほど間違った道で、この地点まで来て気が付いたところです急な坂を下ります

左からの舗装道路と合流して右(西)に進みます

舗装道路に出たところから旧道を上に振り替える

鳥越一里塚跡入口跡への道標
長崎街道の案内板も立っています。国道を越えた高台から一気に一里塚を通りこの下に下ってきていたと思うと、かなり厳しい山越えと思われます

舗装道を100m程進むと進んでいくと、左から車道が合流してきます。合流点の地点から振り返ったところです。 旧道は向かって左で、100m程先の左山手から下ってきたところ、白い標示が見えます

その先50m程で左からの広い道に合流します合流したところで右に、大楠小下バス停があります

すぐ先右に大楠小学校があります

小学校を過ぎたところで道が分岐しているので、左への道を進みます。分岐する地点から振り返ったところです

すぐ先街道沿い左手に 大楠跡と二代目大楠 が聳えています
江戸時代、この場所に長崎街道随一といわれた楠木の大木が立っていた。シーボルトの記録によると、周囲16.88m、直径5.347m、中は空洞で面積14.577㎡、畳八畳敷きの広さで15人が座れると記録されています。明治二十年代の後半に伐採されたが、脇から一本の苗が出て現在の大楠に生まれ変わったといわれています。

隣に大楠公民館があります。大楠公民館を左に巻きながら進み、T字路に出て小学校前で分岐した道と合流して右に折れます

T字路から振り返ると大楠が聳えています。
T字路左角に、大楠の道標と案内板 が立っています

右に折れた先への旧道

西への道を進みます

彼杵川に架かる二の瀬橋に出て左に渡ります

かつてはもう少し川沿いを進んだところから対岸に渡っていたようですが、渡れないので二の瀬橋を渡る

橋を渡ったすぐ先右に 鞘原大明神

鞘の神 
賽の神は、古くから民が信仰してきた民俗神で、全国にあります。
街道は緩やかに川に沿って左にカーブしています

山越えの方向を振り返ったところです
大変厳しい山越えを肌で感じることが出来ました、その上結構長い道のりです

やがて長崎自動車道の高架を潜ります

高架を潜る手前右に 愛宕神社の鳥居

鳥居は大村藩主の武運長久と領内安全を祈願して永宝五年(1677)に再興された。昭和五十二年ここに移設されてきました

左に緩やかにカーブします

三根郷地区に入ります。すぐのところで、分岐しているので、左の旧道に入ります

暫く旧道を進むと、分岐した新道と合流します。その手前左に 上杉古墳群入口の道標

道標の前からの旧道を振り返る

合流して左に進みます

合流した先から振りかえる。向かって右の道が旧道を出てきたところです

街道を少し先右に 長崎街道立馬場の立て看板

同じ敷地内に 妙法寺参道元入口の石碑 右手、彼杵川のさらに西、番神山の山麓に

右手、彼杵川のさらに西、番神山の山麓に 日蓮宗妙法寺 の遠望

国道34号線の彼杵宿郷信号交差点に出ます。真っ直ぐの西への道を、交差点から300m程進みます

途中 大きな 石碑と灯籠二基

300m程進んだ先で彼杵川に架かる一ノ瀬橋を渡ります。江戸時代には橋がなく徒歩渡りであった

橋を渡るとT字路となり左に折れます。一ノ瀬橋を渡ったところから彼杵宿に入ります

 【彼杵宿】
彼杵宿は佐賀県側の嬉野から来ると、34号線に沿って俵坂峠をこえ、彼杵川の谷を下り、長崎県側に入った最初の宿にあたる。宿には本陣・脇本陣・問屋場・庄屋・横目役所・旅籠・酒屋が設けられ、幅4間(約7.2m)の宿場の街並みに多くの商家が軒を並べた。本陣跡を真っ直ぐ進むと港があり、ここから大村湾を時津へ渡り、長崎に向かう海路をとる旅人も多かった。殉教した26聖人もこの海路を連行されました。宿の港側の十字路で北西に進むのが 平戸街道(平戸往還)、南東へ向かう道が長崎街道です。

T字路を左に折れると、すぐJR大村線の踏切で渡ります。その先、真っ直ぐの街道が宿で、300m程の街並みが宿の中心です

踏切を越えたすぐ左に 川原千部塔

踏切より100m程先で、205号線の彼杵本町信号交差点を横断します

立派な旧家

右手に 彼杵神社で旧彼杵宿本陣(御茶屋)跡

彼杵宿本陣(御茶屋)跡の標柱
寛永十年(1633)472坪(約1560㎡)の敷地に建築された彼杵宿の本陣。明治十三年(1880)、本陣跡に彼杵神社が移築されてきました

本陣跡の街道挟んだ向かいに 制札場跡、脇本陣跡 であり、またこの付近に 上村庄屋・下村庄屋 があり宿の設備が集中していました

脇本陣跡と制札場跡 森家の一部を、脇本陣として使用していたが、宝暦二年(1752)の改装により正式に脇本陣となった

すぐ先の十字路に出ます、右への旧道は平戸街道で、左へは長崎街道の分岐点です。真っ直ぐ進むとすぐ行くと彼杵港です

十字路右の筋 平戸街道(平戸往還)

十字路より 長崎街道(嬉野往還)の宿場の街並 みを振り返る

(寄り道)元禄船着場跡
十字路を真っ直ぐ進むとすぐ右手一帯が堀川の彼杵港で、長崎市内時津への港であった。港は元禄七年(1694)築港され、石段で築かれた舟の乗り降り場であった。江戸時代から明治にかけて大変賑わい、五島近海で捕れた鯨もこの港に荷揚げされ九州各地に運ばれました

彼杵(そのぎ)港の風景

右に港を見ながら十字路の分岐から100m余り港に入っていくと港の先端に 八坂神社

八坂神社と祇園祭、神社は祇園社として江戸時代の初期に創建されました。その後、元禄七年に開港した彼杵港の彼杵宿郷氏神様として社殿等が整備され信仰されました

八坂神社から大村湾の眺め正面の少し海に出ている小さな半島辺りから、二十六聖人が長崎に送られた場所です

元の十字路の分岐に戻ります
平戸街道起点道標、長崎街道思案橋碑 をみて十字路を左に折れて長崎街道を東南に進みます。右に旅館若松屋があります

分岐より250m程先で、彼杵川に架かる下川橋に出ます

橋の右袂に 史跡公園二十六聖人碑の案内板 があります

橋の袂左に 本町万部塔

 【寄り道】をします
彼杵川に沿って右の河口に少し歩きますと

日本二十六聖人乗船場跡

慶長二年(1597)二月、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという理由で処刑された、日本最初の殉教者である。
スペイン人のフランシスコ会司教ペトロ・バウチスタはマニラで布教ののち、フイリピン総督の使節として1593年来日、肥前名護屋の朝鮮陣本営で豊臣秀吉と会見など日比通商条約締結に努力したが、サン・フェリペ号入港事件を契機とする、秀吉のキリスト教禁教令の強化により、京都・大阪のキリシタンとともに捕えられた。秀吉は、殉教者たちを厳しく罰することで人々へのみせしめにしようと陸路を徒歩で、或いは馬で、1日約7~8里とゆっくり歩かせた。
1月9日、堺を立った24人の信者達は、姫路・岡山・広島を通り、1月31日博多に到着。翌日、肥前名護屋近くの村、山本で捕らわれた信者で26人となり長崎へと進んだ。やがて、厳しい峠道を越えて大村領の俵坂峠にたどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴らしい景色が広がった。
そこで休息したペトロ・バウチスタは、岩の上に腰をおろし黙想した。今・・・死地へ向かって進んでいる。しかし自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐべき同僚までも共に死んでいく。ペトロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに思われ、とめどもなく涙が落ちた。昼を少し過ぎたころ、殉教者達は彼杵へ入った。
やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は皆手を縛られ、彼杵の浜辺に降りると、そこには三隻の船が繋いでいた。それぞれ乗船、水路時津へと向かった。空には残月が光り、岸には漁村の灯火がまたたき、船は静かに水面を分け、翌2月5日、26人の殉教者たちは、長崎西坂の地で処刑された。
1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ビオ九世は、西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れた。
この 日本二十六聖人乗船場跡記念碑は、この殉教者の残した足跡を記念するため、1986年多くの人々の協力で建設されたものです。(東彼杵町の説明文より)

小学生が大人になったころには立派な松が立並ぶよう私も願っています

東彼杵の乗船場跡から大村湾の西に見える時津町

元の街道の下川橋に戻り東の乗船場跡を望む

下川橋を後に長崎街道を進みますここで宿を過ぎ、彼杵宿郷に入ります

街道沿いの ひさご塚

左に 一本松一里塚跡碑

 一里塚跡の前から街道を振り返る

少し進みJR大村線の踏切を渡ります、この先右の大村湾に沿って進むこととなります。踏切を越えるとすぐに小川を渡っています

小川の先は、左に国道34号線、右にJR大村線、その右手に海岸が続きます。坂を上っていくと左からの国道に合流します

合流したところから振り返ったところです

暫く歩いていくと、東彼杵町町民グランド入口の看板が左に立っています

少し先左に鈴木病院を見て進みます歩道もしっかりあり、景色もよいのでゆったり歩けます

その先で左の鈴木病院への坂を上る道があります。街道は右の国道と左の坂の間を入る狭い道があります。長崎街道の看板が立っています。

往時の旧道は無くなりましたが、う回路として長崎街道は国道の左側を通っていました

その長崎街道迂回路の案内看板の旧道を辿ります

長崎街道の看板が要所にありますので迷うことは無いようです

国道の左(西)側の高台を進んでいます。右の大村湾を眺める

小さな集落を進みます

振り返ったところで、かなり高台を進んでいます

やがて坂を下って右下を走る国道34号線に合流します、すぐの小川を渡るとテクノパーク入口信号交差点に出たところで、横断して右側の分岐する旧道に入ります

右に入った旧道、右手にはJR大村線その右は大村湾です。街道はこのすぐ先で右のJR線の牛頭踏切を渡り海側の千綿宿の街に入ります

長崎街道の小さな宿場 【千綿宿】

牛頭踏切から振り返ったところで、正面の高台を旧道は越えてきました

踏切を渡ったところで分岐する道を左集落へ岐してすぐ左に牛頭の 日審上人霊場

石仏がたくさん並んでいます

霊場のお堂前から振り返ったところです街道右手には千綿漁港

千綿宿の街並み

街道沿いの 土肥家
長崎街道の宿場町として商工業が栄えた千綿宿の商家で、江戸時代から廻船業を営み、日本茶輸出の先覚者であった長崎の豪商大浦慶のお茶や農産物を出荷していた。家は明治期に建てられたもので風格が感じられる

千綿宿の街並みが続く

千綿宿の街並みを進むと右手の千綿川に合流する小さな川に架かる橋を渡り、少し進むと千綿川に架かる宿中橋に出ます。橋を渡らず橋の西詰を千綿川の右岸の堤道を上流に少し進んでいきます

堤道の右ガードレールのところに長崎街道の案内標示があります

右の川沿いをすこし進んでいくと、JR大村線で旧道は遮断されています、ダメですが十分左右確認して線路を越えました。線路を越えたところから振り返ったところです

線路を越えるとすぐそばに34号線に出ます。かつての旧道はもう少し先、高速道の高架との間辺りを右に千綿川をわたっていましたが、今は渡れないので、国道の千綿川に架かる千綿橋を右に渡ります

千綿橋からJR陸橋、その向う海側の宿中橋大村湾を望む

千綿橋を渡り、左に折れて川沿いの道を少し進み、左対岸から渡ってきていた旧道跡に出ます

対岸より渡ってきていたところに、旧道が残っています。左角のミラーを見て地道を進みます。この街道附近に 
馬加瀬淵道標 があったようでしたが見落としました

すぐ先左角には 龍頭泉道道標 「従是・・・・・」

瀬戸の集落を抜けていくと左に瀬戸の 六地蔵と千部塔

六地蔵と千部塔の前からの街道振り返る

その先は、椎木坂の狭い旧道を暫く進みます

椎木坂の途中にも長崎街道の案内板

右下には国道、JR線、大村湾が迫り、その急崖になっているので、危険防止の金網が設けられています

防止柵がなく恐ろしい右崖を見ながら下ります

すぐ右手に大村湾が広がります

向って民家の右手、椎木坂を下ってきたところを振り返る

国道34号線が右から合流します

少し先で国道より今度は右に分岐します

右に折れて少し線路に沿って進みます線路のすぐ先前方に、目の前が大村湾の千綿駅が見えます。消失した旧道は、この辺りから左に入っていたようです

右の大村湾の眺め、波のない静かな湾内

千綿駅のすぐ手前(上の写真)辺りを旧道は、今は消失していますが左(東)に折れて坂を上り100m程で国道34号線を越えて、更に200m程先で千綿小学校の北東に出ていたが、旧道がないので迂回します。
一旦千綿駅前に出て、駅前(東側)の国道34号線の千綿駅前のバス停のある、34号線を200m程戻ります、途中かつての失われた旧道が交差していました。国道34号線の駄地郷信号交差点に出ます、その信号(左T字路)を右に折れます、左に千綿郵便局があります。
信号から南東の道を150m程進むと五差交差点に出ます。細い道が五差路で分岐していますが右を進みます。100m余り進んだところで、右からかつての旧道の道が合流します。丁度、千綿小学校の北東、千綿中学校の北側です。

一旦前まで進んだJR大村線の千綿駅

国道を戻った駄地郷信号交差点

交差点の国道34号線沿い右に千綿郵便局があります

信号交差点から坂を上っていきます。右手に新しい長崎街道の表示

五差路を越えて旧道と合流した先、左への分岐道がありますが、右の旧道を道なりに下っていきます。右に千綿中学校があり、街道を挟んだ向かい下り坂に進むところ

石段の横に 長崎街道柴取石の石標 石段の上にある 柴取石

右手向かいの 千綿中学校

かつては峠であったのでしょう振り返ったところ

坂を下ると新道の十字路に出て横断します

新道との交差点を横断して青々とした畑を見ながら旧道を南に下っていきます

右手後方を見たところ新道の北側高台に千綿中学校が見えます

暫く進むと今は、遺構は何もないが 駕籠立場跡 であった。また傍右には 平原一里塚跡碑 が立っています

一里塚跡前から駕籠立場跡を振り返る

すぐ先で街道は左にカーブして、T字路に突当り右に折れます

右に折れた下り坂を うどん坂 と呼ばれています

うどん坂を下っていったところで、串川に架かる橋を渡ります。橋の左に長崎街道の案内標示があります

橋より振り返ったところです

串川の河口には串島ノ鼻と呼ばれる小さな半島で、串島城址 です

橋を渡り少し下っていきます

国道34号線に出たところです、江の串バス停です。国道を横断して里郷集落です、集落に中に入ります

集落の中を抜けて左に弓なりにカーブしていきます

集落の抜けるところで江の串川に出ますが、その手前で左にカーブ国道34号線の江の串橋の北側袂に出て、江ノ串川を渡っていましたが、今は江の串橋が国道に架かっているので渡ります
旧道は橋の袂から左斜めに川を対岸に渡っていました

江ノ串橋の少し上流を渡っていたところ川の左手に見えるのが長崎自動車道

対岸の集落を進みます江ノ串川を渡った集落の中の少し先右に 
江串三郎入道塚
鎌倉時代の末後醍醐天皇の皇子尊良親王を奉じて、北条氏と戦った武将、江串三郎とその一族の墓と伝わる

昭和に入り建設されました、江串神社

集落内の旧道と 石碑 里郷地区です。
集落を進んでいくと右からの国道に合流します、その左に、清水坂下の千部塔 があったようですが見逃しました
少し注意力散漫です

(街道の補足説明
清水坂下千部塔のところで、旧道は国道の右に出て少し弓なりに迂回し、左の国道に合流していたが、今はその旧道は消失しています。少し国道を進み、右に一二三自動車があるところで失われた旧道が出てきて国道に合流していた。
その前の国道が分岐しているので旧道を左に入ります。そして、右の国道の左手(東側)を150m程沿いながら南に進み、再び国道34号線に合流します。
合流した国道西側に、ホテルイレブン・ドライブインひろやがあります。国道を100m程進みますと、国道から左に分岐する旧道がありますので入ります。

150m程進んだところで国道の右にドライブインひろやがあるところにでた国道

国道に出たところで100m程進むと、左先に坂道の旧道に入るところが見えます

左の坂道を上ると、右手に大村湾の眺望が広がります

暫く歩いて振り返ったところです

200m程右に眺望を見ながら進むと、国道に下る急坂に出ます

急坂を下りますが、国道に合流しないで、左の細い坂の旧道を上ります、右にガードレールが付設されています

坂を上ると山際の気持ち良い才貫川地区の旧道です

右手に国道・JR線・大村湾が望み高台の旧道

才貫田集落内に右に

才貫田籠立場跡標石

 (この先の街道補足説明)
暫く右の景色を見ながら高台を歩いていくと、カーブミラーのある道路に突当ります。
旧道は左に進んでいたようです、蛇行しながら道なりに150m程進むと小さな川に出ますが、その先、旧道は消失しています。消失した旧道は川を渡りすぐ右(西)に折れて国道に出て横断して西側に、その先国道を挟んで左、右、左、右と、JR餅の浜踏切迄300m余り蛇行交差をしながら進んでいました。やむなく消失しているので国道を進みます。

消失しているので迂回するため、ミラーのところを下りすぐ先の国道に出ました。国道には才貫田バス停があります

国道に出て暫く進みますが、途中には消失した旧道跡の道が残っています

彼杵町から大村市に入りました

小さな川に架かる餅の浜橋を渡ります

国道右手に お地蔵さん

その先右手、JR大村線の餅の浜踏切を渡りJR線の右に出ます

松原地区

踏切を渡ったところから街道を振り返る

踏切を渡った右は裸島といい海に突き出た小さな岬があります。そこには、佐屋之御前と書かれた道祖神が祀られて
います。岬を振り返ったところです

海岸線を進みますが右手は松原海岸で漁港

すぐ先、海に突き出た浅瀬で繋がった島が見えます 
鹿の島 かつては海岸に松並木が植えられた景勝地であったが、戦時中に松の木は伐採されました
鹿の島は、昔は潮が引けば陸続きとなる島で、島の中心には 弁財天 が祀られている。鹿の島は景勝地として知られ、明治以降は料亭などが建てられ、避暑の客で賑わったという。鹿の島を右に見て進むと、
松原宿に入っていきます 木の袂の お地蔵さん

すぐ先、変配川の手前左に 長崎街道松原一里塚跡碑

変配川に架かる変配橋を渡ります

橋から街道を振り返る。橋の手前一里塚のすぐ山手(左)国道の向かい(東側)に 浄土宗無量寺 があります

変配橋を渡った街道沿右の墓地には、江戸時代の相撲取りの墓があります 
相撲取りの墓

三基の大きな自然石の墓石には「大荒鷲岩」「秀の川」のしこ名が刻まれています。江戸時代後期の相撲取りで活躍度はわかっていません

すぐ左手にはJR大村線の松原駅

 【松原宿】に入ります
松原宿には本陣・脇本陣の設備はなく、小休止の宿であった。古くから農具など刃物づくりが有名です。宿は松原駅前から松原小学校の先、よし川までが宿場町で、街並みの長さは記録では約五町五十二間、軒数七十一軒で古い街並みが残る。
宿場の中心には茶屋があり、その先には五色塀が残る別当屋敷があった。宿の南端には村の庄屋跡があって、前には高札場が立っていた。そして、よし川を渡り宿を抜ける。西側には海岸が広がり漁師町として海産物が水揚げされ賑わったようです。

松原色の街並み

宿を進んでくると右手に旧家の 福田邸

福田邸の前の街道を挟んで松原宿茶屋があった  松原宿茶屋跡の写真と現在
宿には本陣や脇本陣がなく、宿場の中央部にある八幡神社の門前に茶屋が建てられ(現上野酒店の地)、諸大名が通行する際、小休憩地にあてられた。茶屋は酒店を兼ねていた

茶屋跡の背後こんもりとした杜があります 松原八幡神社 通称「はちまんさま」正面に本殿、下段の鳥居に二つの小さな社がある、向かって鳥居の右には「下のはちまんさま」左鳥居の左に「祇園さま」がある

街道右、福田邸の並びに 旧松屋旅館 江戸時代には茶屋と同じく休憩所にあてられていた。明治・大正・昭和四十年まで長く旅館を営まれていた。当時のまま今も和風建物として残されています

茶屋の並びすぐのところに、素晴らしい五色塀、大村湾一帯の海岸から集められた色とりどりの石を積み、漆喰で塗り固めた派手な色彩の塀。
建久元年(1190)、源頼朝の重臣工藤祐経が、全国33ヶ所に領地を賜り、その一つが松原村の百町歩で、現地の管理者として下向したのが伊東家です。以後、代々八幡神社の別当を務めていた。戦国期には大村純伊が有馬家に敗れた時、大村氏を松原浦より脱出を手助けするなどの戦功があったなど、大変古くからの歴史ある家柄です。

伊東家屋敷跡

その先の十字路を越えた左に、松原郵便局があります

その隣近くに 長岡左近純生の墓 大村純忠の家臣で戦国に活躍した武将

宿場の南端近くに、庄屋跡の石積みが残っています。結構大きな敷地であったようです。現在、松原小学校が建っています

庄屋跡の石垣 門前には 高札場 が立っていた

南から振り返ったところで、松原宿の南側付近。松原宿では松原鍛冶が古くから知られ、江戸時代後期には17軒の鍛冶屋があったことが知られています。鎌や包丁が殊に有名で、「松原鎌」「松原包丁」のブランド名となっています

松原宿を抜けるところで、よし川に架かる葭橋を渡る

橋を渡って100m程先で左から合流する国道34号線松原本町信号交差点に出ます

少し国道を歩き、空港北口信号交差点を過ぎたすぐ、発電所前バス停があります

発電所前バス停の分岐を左に入ります

バス停を左斜めに300m程進むと、道は分岐しています。その正面角に牟田家があり、右斜めの道を進みます

角の所に、旧長崎街道の案内標柱が建ててくれています
長崎街道は要所要所に案内標示があり、街道を保存しようと努力していただいていることに、有難く感謝いたします

右に折れて60m程先で国道34号線の信号交差点を横断します

横断した先の旧道は、100m程先で左(南)にカーブして、暫く水松地区の町並みを進んでいきます途中右手に長岡医院があります

やがて郡川の堤防に出ます。堤防の突当り右に大きな 題目石碑 が立っています

「南無妙法蓮華経」妙宣寺 日蓮宗妙宣寺は郡川の手前右手方向にあるようです

郡川は、江戸時代に橋は架かっておらず、川に並べられた飛び石を伝って渡っていました。
郡川の渡し跡 少し左の34号線に架かる福重橋を渡り対岸に迂回します

福重橋を渡り対岸に出たところの渡し跡を見る

福重橋の石碑 と旧道

福重橋を渡り、橋の南詰を右に折れて対岸の旧道に出ます。旧道を進むところ

100m程先で国道34号線の交差点に出て横断します。国道に出る手前右に お地蔵さん

国道には信号もなく、ガードレールがあり近くに信号・横断歩道がないので渡るのには十分注意が必要で、国道反対側の旧道に渡りました。450m程右の国道近くを平行して南に旧道を進みます

国道を横断した先左に、長崎惣兵衛の墓の大きな標柱が立っています

長崎惣兵衛の墓 大村純忠の家臣

墓地の前の街道

右の国道西側には、郡中学校・県立虹の原特別支援学校が並びます。やがて右からの国道が合流します

合流した先の国道で宮小路地区

国道の標識に 今富キリシタン墓碑の標識左へ1.3㎞あり遠いので寄れなかった

左に 昊天宮 大村藩の総鎮守鳥居の傍に 幸せ灯籠

さらに国道を進み、冨の原地区に入ります国道と合流してから2㎞程国道を歩きます。やがて竹松駅入口信号交差点に出ます。交差点の近く国道沿い右に
史跡 金元山聖宝寺跡の案内板
かつての境内は広大な敷地で、創建時期は明らかでないが禅の大寺であったと伝わる。天正二年(1574)キリシタンにより焼払われた、その後再興されたが、明治に入り廃寺となった。寺跡は聖宝寺、山門口の地名として残っているのみです。

近くに 八天社稲荷大明神

交差点を少し進み原口町に 首塚跡の案内表示が出ている、右に80mの所

お地蔵さん が整備され祀られています

本日はここで終了します、この先の大村城下まで行きたかったが、無理なようなので、竹松駅入口交差点まで戻り、500m程東に進むとJR大村線の竹松駅があるので、大村線で大村駅まで移動して、大村センチュリーホテルにて泊まります。
28㎞程の今日一日の距離だが峠道が多かったので時間が少しかかったようです。

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